KOTOBASM

思考しえぬことを我々は思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことを我々は語ることもできない。

なぜ”哲学”を学ぶのか

 日本大学通信教育部文理学部哲学専攻の科目をみていると、いわゆる西洋哲学だけではなく、倫理学・東洋思想・宗教学(キリスト教、仏教‥)など多岐にわたる。そこがポイントだった。

 

 介護という仕事をしていると、多くの人の死に直面する。そして自分も歳をとるにつれ、死というものが、身近に感じられるようになった。人間は最後に必ず死ぬ。そして哲学という学びはまさに、死についてどのように考えるかという学問だったのだ。

 

 大学は何をしに行くところか。大学卒業というのは、資格という考えもあるかもしれない。若いうちはそういうものなのかもしれない。でも40代になると、そうはならない。ただ大学を卒業するだけで、就職が有利にすすむわけではない。

 

 ではなぜ大学で学ぶのかというと、まさに歳をとってしまうからである。何もしないで年老いて死ぬよりかは、何かをして年を老いたいのである。だとするとポイントは2つ。教養を身につけるというのと、何かをやり遂げるということである。

 

 そのために哲学というのは、うってつけの学問なのである。人は死に向かって今をどのように生きるのかを考える。死を学び、どのように生きるのかを学び、どのように考えるのかを学ぶのだ。

 

 そういう意味で哲学という学問は、40代以上の人が学ぶのに、うってつけなのである。難解そうに思えるかもしれないが、糸口というのはいくらでもあるし、哲学者の思想が大まかにしか理解できなくても、まず自分自身の考える脳に可能性を見いだせればそれでいいのだ。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君のそばにいる。