KOTOBASM

思考しえぬことを我々は思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことを我々は語ることもできない。

書き言葉に回帰してみようと思われる

 言葉には、話し言葉と書き言葉というものがある。ソクラテスは思索した言葉を本にはしなかった。彼は話し言葉の方が生き生きとしているとして、あえて言葉を書いて残さなかったのだ。

 

 今であればテープレコーダー(今さらテープなどという言葉も古いが)があるから、記録に残すこともできるが、紀元前なので話した言葉は残らない。後に弟子であるプラトンソクラテスが話したとされる言葉を本に残した。

 

 けれどもプラトンソクラテスが話したとされるその言葉を直接聞いたわけではなく、人伝に聞いた言葉を書き言葉にしたので、本当にソクラテスが話した言葉なのかは、あやしいところである。これをソクラテス問題という。

 

 以上は余談であるのだが、とにかく話し言葉と書き言葉というのがあるんだよという事を川﨑某は言いたいのだなと理解してほしい。世の中には頭の回転が速い人というのが存在する。実際に頭が回転する人など見たことがないのだが。

 

 まあそれでも”頭の回転が速い”と言われれば、まあああいうことかなという共通認識みたいなものが日本人には在る。実際にはちょっとした意味のはき違えをしている人もいるかもしれないので、共通とは言えないんじゃないのという部分もあるが。

 

 僕が僕自身を見つめ、頭の回転が速いかそうでないかということを考えたならば、とりあえずの結論として速くないと思われる。これは他の人と比べようがないから、本当の結論は出てこないが。

 

 まあそれでも自身の感覚として、言いたいことを話し言葉にするのが下手だなと感じる。頭の回転が速い人というのは2種類いて、ほんとうに知識が豊富で、かつそれを言葉に表すのに長けている人と、知識はそれほどだが、とりあえず言葉に出せてしまう人がいると思われる。

 

 一回区切ろうと思うので、なぜこのようなことを言い出したのか説明すると、今日は弟の家に行き、弟の友達と酒を飲んで話したのだけれど、川﨑某よいったいあんたはなにを話し言葉にしたかったのだと考えさせられたのである。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君のそばにいる。