KOTOBASM

思考しえぬことを我々は思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことを我々は語ることもできない。

お酒を飲んでマジメな話はできない

 先日の続き。僕が酒を飲む機会というのは、弟の家に行った時ぐらいである。仕事やプライベートで人と飲みに行くことがなく、またそういう事がなくても支障がなくやっていけている。

 

 弟の友達家族が家にやってきて、ふだん弟の家でも缶ビール1,2缶に留めておくのに、今回はビールにはじまり日本酒や焼酎まで飲んでしまった。もうそうなると、頭の中の整理がつかなくなり、話したいことが離せなくなる。

 

 話をしたいことは頭にあるのに、言語が発せない。何を探したいのかはわかるけど、引き出しのどこにしまっているのかが、たくさんあってわからないのである。アルコールというのはそういった能力を鈍らせる。ただでさえ話し言葉が苦手だというのに。

 

 以上は出力の問題であるが、入力にも問題はあって、せっかくいい話を聞いても、記憶に残りにくくなる。つまりは引き出しのどこにしまえばいいのか、わからなくなるのである。聞く気がないわけではない。

 

 ちなみに今回、弟の友達となにをテーマに話していたのかというと、三島由紀夫の話であった。他にも大学の卒業論文のテーマなどあったのだが。それと奥様との馴れ初めの話は、きちんと覚えている。

 

 三島由紀夫については、いずれこのブログできちんと書きたいと思っているので、今回は簡単に。三島は死後の世界というものを簡単に考える人ではなかった。国とかそういう抽象的ともいえる概念の為に、若い人に死ねとは言わない人だった。

 

 英霊を見たことがある人など存在しない。それどころか人は死んだら永遠に無となる可能性がある。現世において死への覚悟は尊重されても、無責任に人が人に死を強要することがあってはならない。

 

 これは僕の個人的見解であるけれども、三島も似たような事を考えていたのではないかと想像するのだ。ということを話したかったのだが、話し言葉の能力に欠ける人間なのに加えて、アルコールも入ったので、おそらく伝わらなかったに違いない。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君のそばにいる。